日本の夏の風物詩 花火と日本文化

日本の夏の風物詩 花火と日本文化

こんにちは のレンの坂口です。

前回に続き、日本の夏の風物詩について紹介していきます。
日本の夏の夜を彩る花火は、もはや欠かすことができない風物詩となっています。

先日記事にした金魚と同様に発祥自体は日本ではないものの、独自の進化をとげて日本文化と言えるほど浸透し、発展してきました。

そんな花火の歴史、何故日本人にここまで愛され、風物詩として残り続けているのかについて綴っていきたいと思います。


●日本の花火の歴史


歌川広重 両国花火

日本で初めて花火を見た人物については、いくつか説があるようです。


ひとりは徳川家康。当時の記録である「駿府政事録」には慶長18年8月3日に明国の商人がイギリス人を案内して駿府に家康を訪ね、花火を上げたことが書かれています。


もうひとりは伊達政宗。仙台藩の正史とされる「伊達家治家記録」には天正17年(1589年)7月7日に米沢城で唐人を招き花火を見たという記録が残っています。

こちらが正しいとすると日本で初めて花火を見たのは伊達政宗ということになりますね。


どちらにせよ花火が日本に入ってきて間もなくは、将軍や諸大名など権力者のみが楽しんでいたようです。

現在も行われている隅田川花火大会が始まったのが享保18(1733)年のこと。

前年の享保17年に享保の大飢饉が発生し、多くの死者が出ました。8代将軍徳川吉宗は、犠牲者の慰霊と悪疫退散を願って翌18年 に隅田川で「水神祭」を行います。その際、両国あたりの茶屋が慰霊のための川施餓鬼せがきを行い、余興として花火を上げました。隅田川ではこれ以降、川開きの初日に花火を打ち上げるのが恒例となり、今も続く隅田川花火大会として東京の夏の風物詩となりました。


●魂を鎮めるため、祈りを捧げるための鎮魂花火


長岡大花火大会

先述の隅田川花火大会が享保の大飢饉の慰霊のために始まったように、全国の花火大会には鎮魂・供養のために行われているものが少なくありません。

日本三大花火大会のひとつ、「長岡まつり大花火大会」も「慰霊と復興」の願いが込められています。


前夜祭となる8月1日午後10時半から、『白菊』という慰霊のための花火が打ち上げられます。この花火は1945年の同じ時間に落とされた長岡大空襲で命を落とした方々に向けた鎮魂の花火となっています。

長岡大花火 白菊


また、お盆の時期に花火大会が多いのも理由があります。

お盆には先祖の魂が自宅に帰ってくると言われ、ご先祖様が迷わず帰ってくるための目印として、「送り火」「迎え火」を玄関先に焚く風習があります。

京都の五山の送り火が有名ですね。

古来より日本人は火を神聖な存在としてきました。そのため花火が打ちあがるのを見ると、自然と鎮魂や祈りが込められていることを感じ取ることができるのかもしれません。


●日本人が打ち上げ花火に情緒を感じる理由


大迫力で夜空を彩る美しく華やかな花火ですが、花火を見ると切ない気持ちになりませんか?この感覚も日本独自の感性であるようです。

海外の花火はセレモニーを盛り上げる演出として打ち上げられるアトラクション的なもので、切なさとは無縁です。

一瞬で美しい花を咲かせ、また一瞬で消えてしまうという打ち上げ花火を観たときに日本人が感じる儚さ、脆さは、桜の潔い散り際を愛でる心にも似たものがあるのではないでしょうか。


●線香花火と人の一生

線香花火の歴史


打ち上げ花火と同様に夏の風物詩となっている線香花火。

線香花火の美しい変化は、人の人生のうつろいになぞらえられてきました。


命の始まりを感じさせるような小さな玉となる「牡丹」

火花が勢いを増し、咲き誇るような「松葉」

火花が落ち着き、長い火花が下に落ちていく「柳」

火花が小さくなり、ゆっくりと散り衰えていく「散り菊」

線香花火 松葉


この小さな線香花火のうつろい、変化にみるドラマは儚さ、哀愁漂い「もののあわれ」を禁じ得ません。


そして、線香花火は夏の終わりを感じさせ、夏の名残を惜しむものでもあると思います。

人の一生と夏の終わり。ともに永遠ではなく、うつろいゆくものという無常観が日本人が花火に心を打たれる理由なのかもしれません。

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